パリのカフェとオーヴェルニュ人 - ジンジャーの薫り・・・仏田舎手帖

パリのカフェとオーヴェルニュ人

  • 2006.01.08
日本に住む大学生の方から質問をいただきました。
日本の喫茶文化の研究をなさっていて、カフェという空間の持つ社会的意味について考察していらっしゃるそうです。元来日本のカフェは欧米から来たもの。そこで、パリのカフェについても調べているうちに疑問が湧いてきたとのことです。

パリのカフェの形成にはオーヴェルニュ地方から出稼ぎに来ていた人々との関わりが深く、そのオーヴェルニュのライフスタイルがオープンテラスという開放的なカフェの形態に深く結びついていると言うことを知りました。
しかし、日本にある文献で見当たるのはそこまでで、オーヴェルニュの人々のどのようなライフスタイルが、パリのカフェを開放感あるものに導いたのかという点が理解できませんでした。

クレランさんは、オーヴェルニュで暮らされていて、その地域の方々の暮らしのどのような点が、カフェの開放性に繋がっていると思われますか?
オーベルニュでは昔から屋外で何かを行うことが多かったのでしょうか?
オーヴェルニュは山間地帯という情報から、冷え込むのになぜオープンテラスと深い関係を持つ生活を営んでいたのかますます疑問です。

なるほどなるほど、こちらにいらしたわけでもないのに、なかなか鋭いところを突いていますね!冷え込むし、閉鎖的な気風ですよ、オーヴェルニュは。

みなさん、パリのカフェの約80パーセントが、実はオーヴェルニュ出身者によるもの、ということをご存知でしたか?身のこなしも垢抜けたギャルソンがオーヴェルニュ人だなんて、びっくり ?ガッカリ?!
パリのカフェをつくった人々」(玉村豊男著)の中で詳しく書かれていますので、興味のある方はぜひ読んでみて下さい。
この本の中に答えが書いてあるかな?と思ったのですが、只今整理整頓中で込み入ってまして・・・というのは整理ベタの言い訳で、もうおわかりですね、本棚を探したのですが本が見つかりませんでした(笑)。

でも、2つ思いついた点があります。

その前に、ざっとパリのカフェの生い立ちに関わるオーヴェルニュ人についてお話しましょうね。


17世紀末からすでに、貧しい「中央山塊」地帯から華の都パリへの出稼ぎが始まりました。フランスの「中央にある山塊地帯」がすなわち、「オーヴェルニュ」と呼ばれているところです。
日本の「3K」ではありませんが、パリジャンがしたがらない苛酷な労働を地方からの出稼ぎ者が引き受けたのです。頑強で働き者のオーヴェルニュ人もそうでした。当時まだ水道の施設がなかったのですが、水は生活に必要不可欠なものです。そこでオーヴェルニュ人は都の水運び屋となりました。

水運び屋には2種類ありました。800から1200リットルもの水を馬車に引かせて運ぶもの・・・これは給水所の自由利用権を買えるごく一部の者だけができたこと。ほとんどの運び屋は、公共の水汲み場に列をなし順番を待って、十数リットルの水を2つの桶に入れて両肩にかけた天秤棒で担いで運ぶというものでした。それをアパルトマンの上階まで運んだのです。
「水や~!み~ず、みず~」(A l'eau ! ou ai !, ou Oai !)と売り声をかけながら。(aiというのは「水」という言葉の方言を短縮して言ったものではないか、という義家族の推測です。)一回の手間賃は3スー(15サンチームくらい)、クリスマスにははずんだボーナスをくれる客もいました。

pe.gif


けれども19世紀半ばオスマン男爵がパリ大改造を始めたため、水道施設が各家に行き渡るようになります。
あわや失業か・・・しかしここでくじけるオーヴェルニュ人ではありません。
より裕福な客層のために、入浴のためのお湯を運ぶことにするのです!
バスタブお湯を載せた荷台を客の家の前に止めると、まずバスタブを運び、続いて素早くお湯を運び、今度は中庭の水道の蛇口まで水を探しに行きます。そして、客人(特に女性が多かった)が体を洗っている間はアパルトマンへの入室は禁じられていましたので、暗い(かどうかは想像ですが)階段の踊り場で終わるのを待っていたのです。体を洗い終わった後のバスタブの中の水は中庭に捨て、バスタブをまた荷台に積み戻すまで、一滴の水も床に落としてはなりませんでした。

この水運び屋も、冬は需要が少なくなります。そこで取って代わってきたのは冬に需要の多い炭売りでした。 これがオーヴェルニュ人がブニャ≪bougnats≫と呼ばれるようになる始まりです。「シャルボニエ(石炭商、炭屋)」と言うのを、パリジャンがオーヴェルニュ風の訛りをまねて「シャルブニャ」と言い、それが縮まって「ブニャ」になったというわけです。

炭を売るには炭を確保する小さな店舗が必要となります。これは商売としてのリスクでもあり、同時にチャンスでもありました。
水運びの男達は、 妻帯者のほとんどは妻子を故郷に置いてやって来ているわけでしたが、宿の狭い一部屋に3,4台のベッドを入れて一人月約6フランの家賃でむさくるしい合宿暮らしをしていました。そこに女たちが掃除、洗濯、料理のために故郷からやって来ると、男達に負けず劣らず働き者のオーヴェルニュ女、水運びも手伝い、また炭の店番もする様になりました。男達が配達に出かけている間、店ではついでに野菜や果物も売っていたようです。
配達は50kgもの炭を水と同じように階上まで運ぶのでしたが、雨の日には濡れた袋の重みはさらに増しました。
当時彼らは他にも、街灯の火を灯す仕事をして稼いでいました。1日1時間位と決まっていましたから、少なくても定額の収入になったのです。
こういった小さな稼ぎをコツコツ貯めながら、彼らが楽しみに日に足げに通ったのは酒屋でした。
ここで一杯ひっかけて燃料補給。オーヴェルニュ人は実はすごい酒飲みなのです。(確かアルコール中毒が最も多い地方・・・じゃなかったかな?(;-_-)
そのせいでしょうか、炭のほかに自分達でワインを売るようになったのです。質素で厳格な気風を持つ彼らは教会からのお墨付きを得て炭兼酒屋になりました。

これが、ブラッスリー、そしてパリのカフェの始まりでした。

ふぅ~~タイムマシンの駆け足でした~。


* 参考サイト:以上はHistoire-Généalogie Métiers de nos ancêtresLes aveyronnais de Paris を元に書いています。

あら?でもまだ、質問にお答えしていませんでした?(∩_∩;)

ここでようやっと質問に戻ります。(^-^)

(探してみた仏語のサイトでも答えは見つかりませんでしたので、私の体験からの感想を書きますね。)
「オーヴェルニュの人々のどのようなライフスタイルが、パリのカフェにオープンテラスをもたらしたのか?」
パリのカフェは、以上説明しましたようにオーヴェルニュ人が築いたもので間違いありませんが、ちょっと待って下さい。一般にフランス人が「オーヴェルニュ」という場合、どこを指しているのでしょう?

france1.gif


行政的には○で囲んだところがオーヴェルニュと区画されています。
詳細に拡大して見るとこうなります。

Auvergne.gif


ところが、実際にパリに出稼ぎに出た多くはアヴェロン県の人でもあったのです。

midi-pyrenees.gif


フランス全図で見るとオーヴェルニュの左下に位置しています。オーヴェルニュ地方との接点ですね。(右上がオーヴェルニュのカンタル県)。ここは行政オーヴェルニュよりも南にあり、気候もここより暖かです。人もずっと開放的(閉鎖的なオーヴェルニュ人とは比べ物にならないくらいです!)。
行政的にはミディ・ピレネー地方に入っていますが、
他地方のフランス人(特にパリジャン)にとっては大体真ん中辺(おヘソのあたりですね☆)から来た人ということで、アバウトにみな一括りにしてオーヴェルニュ人と呼んでしまうのです。
彼らにしたらアヴェロンもカンタルも中央山塊のオーヴェルニュなんですね。
南から見たら仙台も山形も東北人、北の人から見たら京都も大阪も関西人と一括りにしてしまうような感覚でしょうか?(いやちょっと違いますね。関東地方の群馬県が東北地方だと思われている感じ、もしくは東海の愛知県が近畿地方だと思われているような感じ…と言ったほうが近いですね。)はたまた中国もタイも日本もここでは「中国」になってしまうような感覚かしら。

義母はアヴェロン人ですので、パリに最初に出てカフェをしたのはアヴェロン人だと主張しています。昔からアヴェロン人は冒険心があり、進取の気性に富んでいたと彼女は言います。
オーヴェルニュ圏から出た人は、オーヴェルニュ人だと主張するでしょう。地元出身者から見ればそれぞれこだわりもあるでしょうね。パリにはオーヴェルニュ同盟とアヴェロン同盟がきちんと存在するようです。Auvergnat de Paris/ L'Aveyron à Paris
(アヴェロン同盟サイトの中でも、自分達のことをオーヴェルニュ人・ブニャという言い方をしています。)

そして実際、オーヴェルニュ人とアヴェロン人との結婚も盛んに行われました。どちらも郷土意識が強いので、パリで成功したあかつきにも必ず夏のバカンスには地元に帰ってくるのです。そしてまた同郷人を連れてパリに戻る・・・または同郷人が彼らを頼ってパリにやって来ると面倒を見る・・・。そうして、首都に一大オーヴェルニュ(アヴェロンを含む)組織が出来上がったわけです。

さてヒントはこのアヴェロンにあると思います。
アヴェロンの人たちは、義父母の故郷がそうなので何度も行きましたが、夏は家族総出で路上で話しこんでいます!なにしろ親戚のおばさんたちを見つけるのには、彼女たちの家に行くよりも路上を探した方が見つかるのです!
「昔は1人1脚椅子を持って家の外に出たものよ。そして道端に座って、何時間でも日が沈むまで話して過ごすの。とにかく1人1脚椅子って決まってたわ。なぜかしら、みんなちゃんと自分の椅子を持って外に出てくるのよ。」
と義母が子供の頃の思い出を話してくれました。
この辺りの(行政的)オーヴェルニュだと、田舎でも外で座って話し込んでいる人というのは、そう見ないのですが、アヴェロンでは田舎でも街中でも、本当に沢山の人が外で話しています。
夏の日没は夜10時ごろですから、遅くまで夕涼みをしながら、家の前で椅子を並べています。
ミディ地方では家が小さいせいもあるのかもしれませんし、中が暑いのかもしれません(ここオーヴェルニュに比べて暑いことは確かです)。その辺りの理由はよくわからないのですが、地方のライフスタイルになっていることは間違いないようです。
彼らが当時パリに住んだとしたら、同じように自分達の構えた店の前に椅子を並べて同郷の者たちと話し込んだに違いありません。故郷のこと、異郷の地パリでの暮らし、家族のこと、これからの生計のこと・・・。
パリのカフェのオープンテラスのルーツはそこから来ているのではないかと思うのですがいかがでしょうか。

もうひとつ考えられるのは、パリでの店舗は家賃も高かったでしょうし、出稼ぎ人が裏通りに借りられた小さな炭屋兼酒屋のスペースに客を出来るだけ多く入れようと思ったら、外の空間を利用するしかなかったのではないでしょうか。こちらの理由は、貧しいゆえに経済感覚の発達した(別名ケチとも言われている)質素倹約、質実剛健なオーヴェルニュ人的発想ともいえます。

用心深いけれども律儀な働き者のオーヴェルニュと新進気鋭で開放的なアヴェロンが入り混じって、相乗効果でパリのカフェを築いていったのは想像に難くない気がします。

余談ですが、この歴史あるパリのカフェ、何代にも渡ってオーヴェルニュ家族に継がれてきたのですが、残念なことに最近のニュースによるとオーヴェルニュ率が減ってきているのだそうです。パリのカフェの80パーセントを占めていた彼らが、今では30パーセントになっているとか。
なぜって?朝から晩まで働くこのハードな仕事を親から継がない若い世代が増えてきて、ついに店の権利を他人に売り渡すケースが増えているのだそうです。働き者のオーヴェルニュ人の子孫が、ついに!という感じです。
パリのカフェを買い受けて、オーヴェルニュ人に代わって喜んで商売に励む新たな人たち・・・肉体労働を厭わない人たち・・・それはどこの人だと思いますか?




中国人ですって!
パリのカフェやブラッスリーが続々と中国人のオーナーになっているそうです。時代は変わっていくのですね。

さて以上が私のお返事なのですが、Rさん、ご参考になったでしょうか・・・?
お返事が遅くなった上に、粗い仮説でごめんなさい。私のザッとの見方ですので、間違いもあるかもしれないことをお断りしておきます。
他にも何かご存知の方、ご意見のある方がいらっしゃいましたら、是非ご一報いただければと思います。
最後にRさん、オーヴェルニュに関する大変興味深い質問をいただき、ありがとうございました♪
!…論文のラストスパート、ガンバレー…!

(*地図の画像はhttp://www.tourisme.fr/carte/carte-region-auvergne.htmからいただきました。)

→→さて、オーヴェルニュのことがチョットわかったところで、あなたのオーヴェルニュ人度テストを試してみましょう♪←←



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