「極右」という言葉と、言葉のちから - ジンジャーの薫り・・・仏田舎手帖

「極右」という言葉と、言葉のちから

  • 2017.05.12
フランスに来て初めて目の当たりにした大統領選は、2002年のことでした。
シラクと、マリーヌ・ルペンの父親であるジャン=マリ・ルペンの一騎打ちになり、シラクが圧勝しました。
ルペン率いる国民戦線は、すでに「極右」というラベルでメディアに忌み嫌われており、どのジャーナリスト達も彼らに市民権を与えないよう、何も知らない私には不当と思えるほど執拗な批判と排除を続けていました。
言論の自由があるこの国で、そこまであからさまに排除しようとする態度こそが、自分たちが批判しているこの政党の「排除性」と同じではないか・・・と思ったものです。

しかも、もっと意外だったのは、国民戦線の目指す政治内容が、日本のそれと変わりがなかったことです。日本の自民党より寛容かもしれません。一般の日本人なら、しごくまともと思えるだろう内容でした。
それが、この国では「極右」と呼ばれ、人間として最低であるかのような扱いを受けている・・・
このことに私は衝撃を受けました。

自分は、フランスの「極右」より、もっと右の国から来たのか、という気づきとともに、
「右」か「左」か、ということも、基準となる軸が違っていれば、言葉は同じでも立ち位置が違う、相対的なものであることに気づかされたのです。

フランスは、日本からは考えられないくらいリベラルで、リベラルな理想を掲げている国です。
「極右」という文字を見たり聞けば、日本人ならもっと過激で危なくて軍国的なものをイメージするでしょう。(確かに、ジャンマリ・ルペンは剛直な感じでしたが、マリーヌはもう少し柔軟で現代的です。)
「移民排斥」という言葉も同様で、すでに移民を排斥していることが普通軸となっている日本人が「移民排斥」と聞けば、さらに厳しいものを思い描くでしょう。でも、フランスではそのレベルではない。

それなのに、日本のマスコミもルペンのことを「極右」と呼び、批判している。自国のことは棚に上げて、なんだかヘンだなと思っていました。
同じ言葉でも、立場や環境で意味が違ってくるのだから、国の基準が違うのに「極右」と訳していいのだろうか。

言葉は、人を煽る力もあれば、破壊する力もある。そして、時間のない私たちの脳に、何も考える隙も与えず、スッと入ってしまう。
いつも言葉のちからに気をつけていて、「こうと言う背景の基準となっているものは何だろう?」 と考えるのが私の癖なので、日本でのExtrême droite の直訳から来る認識の違いにずっと疑問を抱えていたのですが、今回こんな記事を見つけました。

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamaguchikazuomi/20170506-00070683/

http://agora-web.jp/archives/2025962.html


ただ、義父母の世代の人に言わせると、国民戦線は根本的に「敵意」から生まれた政党で、今はそれを隠しているが、彼らが政権を持てばナチスのようになる、と怖れている人たちが多いのです。
それが本当なら目の仇にされるのは納得できますが、実際のところはどうなのか、私にはよくわかりません。

とにかく今回言いたかったことは、観念と同じく、言葉も相対的なもの、ということ。
例えば、「私はMサイズです」とフランスでは言っていても、日本に行くとLLサイズなのに似ています(似てない?笑)。

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