運転免許いばら道 - ジンジャーの薫り・・・仏田舎手帖

運転免許いばら道

  • 2006.07.02
これからお話しするのは、 教習所に通い始めてから今回めでたく 運転免許取得に到るまでの、5年という長い茨の道のりですが、実は私がお話したいのは運転のことではありません。

みなさま、苦手なことはありますか?
いえ、 苦手、という言葉では甘すぎるかもしれません。
苦手ということは、それと多少なりとも関わり合いがあるということも含みますから。
一生涯、それと自分とは全く縁がない、関わり合いがない、いやあるはずがない、いや、絶対あってはならない、と思っているようなもののことです。
もしそういうものを心の隅の暗がりに追いやって、ぐるぐるに鎖で巻いて鍵をかけて、うっかり間違って出て来られないようにしたつもりで、さぁこれでもう安心、自分とは一生関係ない、と胸を撫で下ろしているのでしたら・・・私の道のりはひょっとしたらご参考になるかもしれません。
これをここでは「苦手」という意味が最強に強められたものとして「タブー」と呼ぶことにしましょうか。

私にとって人生最大のタブーは「運転」でした。
なぜ?
そもそも、実家には車がありませんでした。
父は頑固なエコロジストで(この最近流行の単語は非常に聞こえはいいですが、私が子供の頃には単なる古い頭の頑固親父でしかありませんでした。)、車の排気ガスに常に腹を立てている人でした。
空気を汚染する排気ガスは悪魔が吐き出す息と同じくらい憎憎しいものであり、それを生み出す車は文明の利器であるよりはなげかわしい物体だったのです。したがって、最低必要限度の公共の自動車などは許容範囲にありましたが、自家用車を持つという考えはハナから存在していませんでした。

母はいつの頃からか私をこう言って育てました。
お願いだからね、一生のお願いだからね、お母さんのいっしょう~のお願いよ、いい、あなたは車の免許だけは取らないでね。あなたには無理なんだから。絶対に事故を起こすから。忘れっぽくてうっかり屋さんのあなたは、きっと不注意から事故を起こすわ。だから、ね、車だけは止めて。お願いよ。お願いよ。。。絶対と約束してね。。。

そうまでお願いされなくても、母の心配は杞憂というものでした。なぜって私は車というものに、まったく興味がありませんでしたから。
どのくらい興味がないって、興味がないとなったら私は一般常識も欠くくらいヒドイものです。
車関係のお仕事の方には大変申し訳ない話ですが、ベンツもBMWも区別がつきません。何度見ても覚えられません。いやそれどころか、ベンツもトヨタもルノーもアウディもホンダも区別がつきません。むしろ区別があることすら無頓着だったというべきでしょう。タイヤがついて路上を走る乗り物、というカテゴリーで括られているのみです。
私にとって区別がつくのは、色。そして、トラックか自家用車かジープかタクシーかバスか、の5種くらい。
フランスに来てからですが、以前ある人に「お宅の車は何?」と聞かれたときに、即座に自信をもって答えました。
「白いの。」
・・・・・・・・・・・・・。
私にはそれが完全な答えでした。まさか、相手がその続きを待っているとは思いもよりませんでした。
私が黙っているので、何か戸惑うような表情をして相手が切り出しました。「シトロエン?プジョー?205?」
「はっ?」その時、私の答えは「完全」どころか、相手の知りたい情報の一部たりとも伝えていないことに初めて気がついたのです!
しかし私には・・・みなさんもうお気づきだと思いますが・・・夫がいつも乗っている車、私も買い物にいつも乗っている車がどのメーカーのものなのか、知る由もありませんでした。
ひき逃げ犯人の車の目撃者だとしたら、なんと役に立たない証人でしょう。

ここまで車に無関心な私ですから、運転がなんたるかも知らない子供のうちでしたし、母の言葉に特に抵抗は覚えませんでした。
お願いだからね、一生のお願いだからね、お母さんのいっしょう~のお願いよ、いい、あなたは車の免許だけは取らないでね。あなたには無理なんだから。絶対に事故を起こすから。忘れっぽくてうっかり屋さんのあなたは、きっと不注意から事故を起こすわ。だから、ね、車だけは止めて。お願いよ。お願いよ。。。絶対と約束してね。。。
子供の頃からずっと、30年以上も言い聞かされて育つうちに、「母のお願い」は私の中に深く深く浸透していました。思った以上にずっと深く。かなり深く。潜在意識にこびりついて時と共に酸化して固体になり岩塊になったのでしょう。
大人になった私は「運転はできない人間なの。私が運転したらきっと人を轢いちゃうわ。」と自分から言うようになっていました。
スーパーでカートを他人のと間違えたり、バギーを押しながら他人の足を轢いてしまったり、ショーウインドウがあるのも忘れて夢中で商品を見ようとして頭をガラスにぶつけたり、ということがあるたびに(しょっちゅうあるんですから)、あぁ私はやっぱり運転できないわ!とひとりで納得したものです。

加えて子供の頃から車に乗れば必ず車酔いで具合が悪かったので、乗りたいとも思いませんでした。車を持っているボーイフレンドも出来たことがなかったし、車とは縁のないまま、母の願い通り、まっしぐらに進んでいるかのように思えました。

フランスのこの田舎に来るまでは。

車がなければ手足をもがれた赤子同然なのは、以前の日記に書いてありますので省きますが、そうなって初めて、私は母の願いを裏切らなければならない状況に追いやられたのです。

この私が運転なんて・・・そう思っただけで信じられず震えました。ひとりでロケットに乗れと言われた方がまだマシです。人様を巻き込まないのですから。車は多くの命と直結しているから怖い。高所 恐怖症や閉所恐怖症というのがありますが、それと同じように私は 運転恐怖症になっていたのです。
パブロフのイヌのように、呼び鈴イコール唾液が出てくる代わりに、「運転イコール事故イコール死」という反応が私の中にどっかり住み着いていました。
実際にやってみると、これを追い出す、という作業は、自分ひとりで意識してなんとかできる、というカンタンなものではありませんでした。 潜在意識は容易にはねのけられるしろものではなかったのです。

おそらく、誰もが子供の頃の 「刷り込み」を持っているものだと思います。
ポジティブなものはいいけれど、ネガティブなこういった刷り込みは、乗り越えるために、自分で自分の腕を切り落とすくらいの努力と葛藤を必要とするのです。そのことを体験で知りました。

従って私が免許を取得するまでに到った道のりは、技術的な面もありますが、むしろ私にとっては精神的な克服の長い長い道のりだったのです。

学科試験は一度目で合格しましたが、それは理論を机で勉強すればよいのですから大丈夫だったのです。もちろん交通ルールなんてまったく興味がなかったのですから、すらすらと頭に入ってきたわけではなくて、まるで物理や化学の難しい説明と同じくらい遠い世界のことに思えましたが、わかれば面白くもなってきたものです。ただし、理論の授業は最低20回受けるのですが、教習所に行くためには運転できなければ行けない、という哀しい矛盾が私を足止めしました。
夫が仕事を早く切り上げて帰ってきてくれるときは行けたのですが、仕事が忙しくなると夜6時に戻ってくるのはどうしても無理。結局月に1-2回の授業しか受けられず、早く進みたいと当初は気持ちばかり焦っていたので空回りして精神的に疲れてしまい、途中約一年放棄してしまいました。再びやる気を取り戻し、土曜のレッスンに子供二人も教習所までつき合わせて、なんとか試験まで漕ぎ着けたのでした。

一番の問題はやはり運転実技のレッスンでした。
最低20時間以上取らなければならないのですが、若い人は20時間プラス数回、せいぜい10時間取って試験を受けているのに、私ときたら、20時間経ってもハンドルにしがみついたスッポンみたいに運転席に座っているだけでした。
結局、全部で68時間ものレッスンを取りました。(始めた当時、一時間のレッスン料は28ユーロ。今は値上がりして30ユーロです。)
ハンドルを握ったとたん、怖くて怖くて気持ちが舞い上がってしまうのです。「運転イコール死」「誰かを轢いてしまう」・・・この反射をどうすることもできませんでした。恐怖が私を支配します。
すくんでしまう気持ちからあまりにもハンドルを強く握り締めるので、いつも汗でびっしょりと濡れ、次のレッスンの人に悪いと思ったほどです。力の入れすぎで、一時間のレッスンのあとは、両腕がビリビリ痺れて筋肉がガクガクとしたほどです。グッタリと疲れきってしまって、放心してしまったことも多々あります。この状態が60回を過ぎるまで続きました。
誰もいない広い田舎道は、それでも大分よくなってきました。でも町中に出て、歩行者が歩道をチョロチョロしているのを見るともうダメ。轢いてしまいそうで怖い。他の車が右から左から出てくるともうダメ。ぶつけてしまいそうで怖い。全身硬直して、ハンドルにスッポン状態です。
スピードなんて出せたものではありません。どの道も1速で走りたいというのが切なる願望でした。

それでもなんとか形になっていると教官が判断して、60回の間に試験を3回受けましたが、3度とも落ちました。1度目はスピードが遅すぎ。怖くて町中で制限時速50kmを出せず30kmくらいで走ったため。2度目はパン屋の角を一箇所右に寄りすぎたため。3度目は道に迷ったため。迷っても落ち着いていれば大丈夫だったそうですが、迷ったということで慌ててしまってバックミラーを見ずにウインカーを出して全然違う道に入ってしまったのでボツ。
毎回全力投球、でしたが、どれも砕け散りました。精一杯やっているだけに、毎回の失敗はつらいものでした。でも、ここで免許を取れないということは、逆に言えば未熟な状態で取ってしまったら危険なわけですから取れない方が良かったのだと納得できました。

そして、一年半前にこの3回目の実技試験に落ちたときから、私は「同伴運転」というシステムに切り替えました。
というのも、実技試験を受けられるのは5回まで、と決められているからです。
5回とも落ちてしまったら、振り出しに戻る、と決められているのです。また学科試験から受け直し、教習所には最初からレッスンを申し込まなければなりません。
すでに3回棒に振った私には、あと2回しか残されていませんでした。でもあと数回レッスン料を払っただけでこの2回内で合格する自信はどこを探してもどこをすくっても到底、ありませんでした。そこで、家族にすすめられて、このシステムに変更しました。
運転経験をもっと積んだ後に、残り2回の試験を受けることにしたのです。

「同伴運転」La conduite accompagnéeというのは、28歳以上で最低3年以上普通免許を所有する人に助手席に乗ってもらい、実際に路上で運転経験を積んだのちに試験を受ける、というシステムです。筆記試験に合格した日から3年以内の期限で、最低一年以上3000km走らなければなりません。(走行するのはフランス国内に限る。)
16歳からこのシステムを始められるので、大抵の場合、16歳の若者が両親の横で2年間運転し、18歳になったときに免許の試験を受ける、という風に活用されています。
このマークを見かけたら、運転席を見てみて下さい。若い男女が、親の横で一生懸命ハンドルを握っている姿が目に入るはずです。
その若い男女のはずが、親の世代の私が必死にハンドルにしがみついているのですから、通りすがりの人は首をかしげたに違いありません!

同伴運転に申し込み変更する手続きに教習所に行くと、教習所のマダムが「大丈夫?旦那さん、辛抱強い?気が短くない?」と聞いてきました。
私の場合、助手席に座ってもらうのは親、というわけにはいきませんので、夫、そして義父の2人になりました。
「短いです。離婚しないように頑張ります。」と答えると、そこにいた人が全員笑いました。ふしぎなことに(いやふしぎでも何でもなく、世の中の論理なのかもしれませんが・・・)
どのフランス女性も「夫とは運転しちゃダメよ!」と口を揃えてアドバイスしてくれたものです。「絶対喧嘩になるから」って。夫婦喧嘩の第一原因は運転と言っても過言ではないくらい、なのだそうです。男と女の運転は、それだけで食い違うようで、それにカッカッと口出し文句をつけずにはいられないのがフランス男たちのようです。そのリスクを敢えて犯そうというのですから、免許は取れても夫は手放すかもしれない結果が待ち受けているかもしれないのです。それを踏まえての私のジョークでしたが、全員笑ったところを見ると、どの人もそんな夫婦の運転状況を承知というわけでした。

確かに、そんな危機は何度も訪れました。最大の危機は、忘れもしない、2004年12月31日、大晦日の夜のことでした。同伴運転に切り替えてまだ間もない頃。
大晦日の晩餐、レベイヨンを2人きりで迎えるための買い物を済ませ、帰宅途中の運転でした。大通りを一直線に走って来て、村に入る道へ左折しなければならない時(日本の道路で言えば大通りから右折するに当たると想像して下さい)、左折の手前でスピードを落とした時にエンストを起こしてしまったのです。つまり大通りのど真ん中でストップしてしまったのでした。夜道で他の車はありませんでした。
まだ運転に馴染めない私は思いもかけないエンストに戸惑い・・・(なんでエンストしたのかしら・・・どうやってエンジンをかけ直すんだっけ)・・・・・時を同じくして予想もしていなかった夫の絶叫が車内にこだましました。




死ぬーーー!





え・・・度を失いました。


そんな・・・、ちょっと待ってよ。とあわててエンジンをかけ直し、ギアを入れようとするのですが、入りません。
夫は後方から車がスピードを出して来たとしたら私たちの車に追突するものと思った模様。


死ぬーーー!死ぬーーー!


と夫の声が繰り返しました。
どうやらその言葉で怯えてしまった私は脚も手も震えているようで、うまくギアをいれることが出来ないのでした。
何度やっても入らない。
どうしたらいいのか教えて!冷静な指示を願って震える声で尋ねると、
なんとかしろーーーーーーーっ!!
見ると夫は両目をギューッと力一杯つぶって前かがみになって、死ぬー死ぬーと叫んでいます。
んな、なんとかしろったって何とかできないから聞いてるんじゃないの・・・目なんかつぶってないで、具体的に教えてよ・・・助けてよーーッ!という心の叫びも声にならず、ようやっと足を踏ん張ってギアが入り、エンジンを汽笛のように唸らせて左折できたのでした。
家に辿り着いた時、夫は下手くそーと怒り狂っていましたが、私は両腕や両脚のみならず全身もガクガクとして、しばらく震えが止まりませんでした。このとき、絶対に来年の大晦日までにはこのオトコと離婚してやるッ!!!と固―く決心したものです。
結局、車に問題があって、あちこちでエンストするということがすぐ後でわかりました。
それから、夫がそれほどの決死の覚悟で私の横に乗ってくれているということもわかりました(笑)。

というわけで、もしご主人と同伴運転をなさろうと思われた方は、双方ともに人格をさらけ出すことになりますので、相当の覚悟をなさった上で決めて下さい(笑)。


折りしも、運転好きな義父が退職し、平日自由な時間が増え、彼がメインで同伴運転を担当してくれました。どんな運転をしても動じない、肝の据わった義父の存在は本当にありがたいものでした。もし私が彼の妻だったら、とっくの昔に首を絞め殺されていたかもしれませんが(笑)。
義父はその昔義母にも息子にも運転を教えた熟練教官というわけでしたが(当時は、免許を取っていない者に親や知人が勝手に人通りのない路上を走らせて練習させるのが、公然と許されていたそうです)、私ほど出来の悪い生徒は、彼にとっても初めての試練だったでしょう。
彼と一緒に始めた当時私の運転は本当にひどいもので、「まるで初回のレッスンのようだ!ほんとに教習所でレッスンを取ったのか!」と歯にキヌを着せず義父に言われました。いや、60回のレッスンを受けたからこそようやっとこのレベルにまで上達したのであって、初回のレッスンはこんなものではなかったのだよ・・・と説明しても、彼は前代未聞というように首を振るばかりでした。
目の前を自転車が走っていると、硬直してブレーキをかけてしまう。追い越すなんて怖ろしくてとても出来ない。カーブがあると勢いよく突っ込んでいくくせに、曲がりきれないとわかってとたんにブレーキ。町中に入るとそれだけで緊張して信号無視(全然見えてない)。いやもう、横に座っている義父の度胸には脱帽でした。

時々私は自分に向かって言うのでした。「ホラね、母の言った通りでしょう。わかったでしょう?私に運転は無理なのよ。私は人一倍運転に向いていないのよ。」
ほらね?私は運転しちゃいけないのよ。そして私は心のどこかで相づちを打つのです。ほんとね。
そのセリフを、義父母を呼んで食事をしている時に、口にしました。アレだけの私の運転を見ている義父と夫ですしその話を聞いているはずの義母ですから、当然彼らの同意を得られるものと思って投げかけました。ところが、彼らの3人の反応は意外なものでした。
憤然として、何を言ってるのかわからないといった表情で
「お母さんは・・・そう思わせることに成功した、ということだ。」
と言ったのです。
何、この人たち、私のひどい運転ぶりを見て、まだそう思わないの?
母が私にそう思わせるように成功した・・・?私の思い込みでしかないというの?
呆然としながら、その言葉の意味を・・・そして、心理のからくりを・・・手品の種明かしを知ったように頭の中で反芻していました。私は自分で逃げる言い訳をしていたに過ぎない・・・?
また、あくまで強気な彼らの精神構造がうらやましいとも思ったものです。

3年半前になるのでしょうか?母がフランスにやって来て、飛行場まで迎えに行った夫は、母が開口一番こう言ったのだと驚いたように話してくれました。
「あのね、クレランは運転は無理なの。あの子が運転したら危ないの。」
無理とか出来ないと言う問題なのではなく、生活に欠かせないものなのだと夫は返事をしたそうです。
それにしてもわからない、と夫は言いました。「子供には自立できるあらゆる手段を教えるのが親というものだろう。車の運転は移動のための自立だというのに、なんでそれを阻害するようなことを言うのかな?実際、君がここで不便なのはそのせいだというのに。」
「それは私のことを心配しているからよ。」と私は答えました。しかし、思いやりという毒に気がつかないうちに徐々に漬けられて中毒になるということもあるのだと気がつき始めていました。
麻薬中毒者やアルコール中毒者がそこから脱するために専門家の治療を必要とするように、精神的な刷り込みから脱するのもまたそのくらいの努力を要するものなのです。

義父には、状況に合わせてどうすればよいのか、その度に具体的に操作を教えてもらえたことが本当に助かりました。夫は感性で運転しているようで、どうすればよいの?と聞いても、いつもうまく答えられないのです。
その点、理論的に説明されると、腑におちます。
例えば料理をするときに分量を量らずに適当に入れても感覚でわかるタイプと、きちんと計らないと出来ないタイプがいますね。私の運転は「感覚」が完全に欠けていましたので、細かいところまで理論的に説明されないとどうしてよいのか途方に暮れてしまっていたのです。
私が免許を取れたのは、彼の存在なくしてありえません。

大通り、田舎道、カーブ道、夜道、雨道、雪道、高速、週に少しづつ、全部で5000km以上走りました。約1500kmに到ったときだったでしょうか。
私を支配していた恐怖が、ふと、抜けていくのがわかりました。
一段階、自分がステップをのぼったのを感じました。
経験を積んでいくことで、自信がついたのでしょう。まだ頼りない自信でしたが・・・ようやっと体を縛り付けていた恐れから逃れたのを感じたのです。
恐怖と闘うには経験を積むしかないのだ、と実感した瞬間でした。

恐怖が抜けていくに従って、周りがよく見えるようになり神経が行き届くようになりました。「君は車の中にいない」とよく義父に言われたものですす。「いるわよ、ここに!」と私は言い返していましたが、横にいる義父は「他のことを考えているのか、上の空」という風に感じたそうなのです。
それはつまり、怖がっているとそれだけで気持ちが浮いていて頭の中が空白になっているので、神経が行き届かなかったようなのです。
怖いと思うことが却って危険なのは、山登りも同じですね。
でも、運転しない期間が少し間をおくと、またすぐに逆戻りでした。
坂を転げるように恐怖が戻ってきます。3歩進んで2歩下がる、時には2歩進んで3歩下がる・・・の気の遠くなるほど忍耐強い繰り返しでした。

当時、運転するときには「私は車がこわくない。私は運転がこわくない。」というセリフをいつも唱えていました。そのことを友人に話すと、「あらダメ。」と彼女は言いました。「そういう否定的なセリフを使ってはいけないの。そう言うと脳は『車』と『こわい』というコトバを結び付けてしまうのよ。だから、もっとポジティブなコトバを使って。『車』と『喜び』が結びつくようなイメージを思い浮かべて。」
ちょうど、脳のシステムを勉強中の彼女のアドバイスでした。
なるほど!
目から鱗、「車がこわくない」というフレーズはゴミ箱に捨て、効果的な新しいアファメーションを考え直しました。「私は運転が上手です。」うーん、どうもしっくり来ない。実感が湧かない。「上手」という響きは自分とかけ離れすぎていてイメージしにくい。でもこんな調子でポジティブな文をこしらえればいいわけです。
そのうちに、ピンと来るものに出会いました。
「私は、どんなときにも落ち着いて、安全運転ができます。」
そうだ、これだ・・・!
私が望んでいるもの、それは「上手く」運転することじゃない、「安全に」運転すること。
「安全」という言葉は、私の中の「恐怖」と対応して、鎮痛剤のように癒すような効果がありました。この言葉を唱えながら運転すれば、きっとそこへ到達するだろうという気がしました。


ところが一年以上走って、自信らしきものがつき、ハンドルも冷汗でベトベトにせずソフトに握れるようになり、経験も積んだのだから合格するだろうと誰もが思ったこの4月、またしても試験に落ちてしまったのです。
4回目も沈没。縦列駐車をしたときに、とりあえずうまく駐車できたのですが、止める側ばかり見て反対側を見なかったからという理由でした。
今度こそ!と力むあまり、試験日の一週間前から眠れないくらい緊張していましたので、かなりギクシャクした運転にもなっていました。それに車が多い町中での駐車がまだ怖く、苦手なのは事実でした。
ついに、残るチャンスは1回・・・。
しかも、学科試験に合格してから3年以内、という期日は7月に迫っています。その期日を逃しても、またゼロからやり直しです。どのみちゼロからやり直し・・・それでも取得するまであきらめるつもりはありませんでした。またゼロからやり直したっていいじゃない。そうしたらまたあと5回チャンスが巡ってくる。何年かかったって絶対取るまで続けるんだから。落ちたっていいじゃない。そう思ってみても、それは逃げというものでした。本心はやっぱり今回が最後のチャンスだったのです。

最後の試験日までに駐車の猛特訓をしました。試験のことを考えるとすでにガクガクし始めていたので、緊張のしすぎで前回のような失敗をしないように、友人が薦めてくれたホメオパシーも利用することにしました。
緊張やストレスを緩和するためのホメオパシーがあるということを、初めて知りました。
薬局の人に相談すると、「試験日はいつ?今から何日後?眠れますか?胃が痛い?」などと聞きながら、考えて幾種類か用意してくれました。「名付けて運転免許成功セットよ!」と励ましてくれました。
それが効いたのかどうか、よくわかりません。でも前夜よく眠れたところを見ると、効いたのかもしれません。しかし試験当日の朝は、やはりひどい緊張とストレスで、自信も最低でした。涙がぼろぼろとこぼれてきました。あぁだめだわ。5000キロも走って前回だめだったんだもの。どう考えたってミスの1つや2つはするわ、合格するとはとても思えない・・・。このまま永遠に今の生活が続くんだわ・・・。子供たちを私自身ではどこにも連れていってやれない。そんな生活が・・・。

涙を拭って、ゴミを出すために外に出ました。
その時の不思議な感覚を、はっきりと覚えています。
雲間から、明るくなるだろう日差しがふりそそいでいました。
その時、突然、空から、いえ私の内側の声だったのですが、空から降りてきたように声がしました。
「今日から私の新しい人生が始まる。」
えっ?と自分で思いました。なんでこんなこと思うのかしら?
その声はもう一度しました。
確たる自信に満ちて、優しく安定した声でした。
「今日から私の新しい人生が始まる。」

あぁそうか、私の新しい人生が始まるんだ・・・。と、もうひとりの私がうなずいていました。
その時、ビジョンが見えたのです。
もう誰にも頼らずに、他の普通のフランス人と同じように運転し生活している姿を。
と同時に、なぜか私はこう言っていました。
「もういいよね、お父さん・・・。私、運転するわ。もう、いいでしょう。」
静かに穏やかに、諭すように父に話しかけている私の声がしました。
なぜ父であって、母ではなかったのか、私にもわかりません。話しかけていたのは私であって、私ではなかったからです。
けれど言い終えた時に、蝉が殻を脱ぐように私から離れた殻・・・小さな姿がありました。「見えて」いるのですが、「感じた」と言った方が正しいのかもしれません。それは、怯えた子供でした。
私の内なる子供、私の中にずっと一緒に住んでいた「怯えた子供の私」が離れていくのでした。
あぁ・・・あなただったのね。と私は咄嗟に思いました。そうか、あなたが出て行ける日を待っていたんだわ。それが今なのね。この日のために私はレッスンを積んできたのね。
さようなら・・・。
今、たった今、私は「ちいちゃな私」に別れを告げたのでした。
そして自信と責任と自立心の混ざったような気持ちが胸のなかに広がっていきました。もう義父が横にいなくても、1人で運転できる、1人で町中にも行ける、そう思えました。
その感覚は不思議なものでした。

おそらく、子供の頃からの「刷り込み」が本当に離れていった、乗り越えられた瞬間だったのではと思います。

試験は信じられないくらい、何もかもうまく出来ました。試験官の男性の顔を見た瞬間、安心できるものがありました。訛りのある喋り方も朴訥としていて、今までのキリキリとした感じの女性の試験官とは違って、こちらにストレスを与えないものでした。私は義父としているように、普段のままの自分を出して運転することができました。
後日、試験時に一緒に同乗した教習所のマダムに「とっても上手に運転できていたわね!あの試験官に随分いろいろやらされていたけれど。」と言われました。自分では、時間が長いとは感じましたが指示されたことはどれも簡単に出来たのでいろいろやらされたという実感がなく、少し驚きました。それだけ私もようやっと上達した、ということなのでしょうね。

合格と言われたときには、感極まって涙がこみ上げました。
教習所のマダムとはもう5年のお付き合いになるわけですから、彼女も「ビズをさせて」と言ってくれました。しかし、ビズだけでは足りないくらいの気持ちでしたので、私は「抱きしめさせて下さい」といって、試験を終えたばかりの車の横でギュウと抱きしめました。
本当は試験官のことも抱きしめたいくらいの気持ちだったのですが・・・男性だったし、初対面だったし、さすがに遠慮しておきました(笑)。

隣人のモネットに報告に行くと・・・「あの、私今朝・・・運転免許を取りました」と言い終る一瞬前に、すでにモネットの顔が迫ってきて見えなくなり、私は彼女の顔のしなだれた肌と熱いビズに埋もれていました。「あぁどんなにあなたのために嬉しいことか!」そして「さぁ乾杯しましょう!」とその場でワインを出してきて注いでくれました。必要に迫られた時、何度彼女が運転してくれたことでしょう。

毎朝お世話になっている村のスクールバスの運転手さんも祝ってくれました。
お茶に、買い物に、と代わる代わるいつも乗せてくれていた近所の友人たちも。

ちなみにこの5年の間に、村の少年少女だった3人が次々と楽勝で免許を取り、今では大学生、大学を卒業して働いている者、結婚した者・・・となっているのですから、容赦ない時の流れに置いてきぼりになったような気持ちになったことも何度となくありました。次は息子トトの番・・・その前には何とか!と思ったものです。

しかし何と言っても一番私の熱いビズを捧げたのは、義父にでした。
必要な時に必要な人が側にいてくれた。
その巡り合わせに、大いなる存在を信じずにはいられません。
もちろん、影ながら支えてくれた義母にも。

先入観がなければ、もっとごく普通にレッスンを受けて、ごく普通に苦労をして、ごく普通に取れていたかもしれません。でもそうではなかった。
ゼロからの出発ではなく、マイナス1000ぐらいから出発したのですから、ゼロの状態にまでもってくるまでが大変でした。
でも、それを乗り越えた今、大きな自信になっています。

そしてもし都会に住み続けていたら、車なんて必要なくて、私の中の「タブー」と直面する必要も出てこなかったでしょう。でも、そうするべきだった。それを乗り越える機会を与えてくれたことに、人生の意義・・・「偶然はない」という計らいを感じることができます。

どんなに「苦手」なことがあっても、人一倍も人百倍も時間がかかるだろうけれど、必ずや身につけることが出来る。それが今回のことを通して学んだことです。
今や、次は大型トラックの運転免許を取ろうか、はたまた、飛行機の操縦をマスターしようか、という気にすらなっているくらいです。(いきなり気がデカくなる)
苦手なことは山ほどあります。恐怖症のタブーもまだ幾つかあります。
でも、「不可能はない。」(まさかナポレオンの国に来たからこんな気になったんではあるまいか)。
これからは、それらから逃げずに、どんどん向き合って挑戦して、克服していきたいと思います。
「できない」と自分で決めてしまうことが(大切な人からの影響であろうとも)どんなに危険で無意味なことか・・・ それが、免許だけではなくこの5年かけて私が得た、貴重な 気づきだからです。



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