永遠の義務 - ジンジャーの薫り・・・仏田舎手帖

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永遠の義務

  • 2013.03.22
少し前に書いた「誰かの太陽」を読んで下さった方から、

鹿島茂・評 『シモーヌ・ヴェイユ-犠牲の「思想」』=鈴木順子・著
http://ameblo.jp/officekashima/entry-11463354668.html

という記事の紹介とともに、以下のようなメールをいただきました。

私たちが誰かに対して「義務」を果たすには「犠牲」がともなう。
けれど、人間はそうせずにはいられないし、そうしているあるいはそうしたくなるという状況に心が揺さぶられる。
「レミゼラブル」を引き合いに出しながらの評論でした。
私たちが犠牲を払いながら、義務を果たす行為は、結局はもっとも人間として幸せを感じる行為なのかもしれませんね。

そろそろうちは「親離れ、子離れ」の季節でもあるので、
「犠牲を払いながら義務を果たす」対象を、この先どう見つけるのか、
もしくは違う「生きがい」をどう見つけるのかということを考えさせられます。



いただいた記事とメールを、私は何度も読み返しました。
そして「誰かの太陽」で感じたことが、20世紀初頭の34歳という若さで亡くなった女性によって、哲学的にこれほど鮮明に説明されていたことだったのだとわかり、自分の気持ちに腑に落ちたと同時に、シモーヌ・ヴェイユに驚き感動しました。
メールの内容にも共感しました。

権利、権利と声高に言われるようになったのは近代に入ってからでしょうか。
でも確かに、私たちが過ごす毎日の暮らしは「権利」とは無縁の行為の積み重ねで成り立っています。

権利とは「人格」という特権を持てる人間の「ある部分」が社会の中で有することのできるもの。
では、「人格」すら持てない、権利など与えられない人間または誰もが持っている人間の本質的部分は、何を基盤に生きているのでしょうか。
それは「義務」なのだそうです。

「相手を救うことができる時、飢えで苦しんでいる人をそのままに放っておかないことは、人間に対する永遠の義務の一つである」

この義務を果たし、他者を生かそうとする時に発生する自己犠牲という行為・・・
それこそが誰もが抱える内的動機であり、社会の根底にあるのもの。
人をつき動かすもの。

はっきり言って、毎日が「義務」と「犠牲」だらけ。
私の「権利」って何ですか? って遠い目状態ですが
これこそが「いきがい」ってものだったんですねー。
社会の基盤を支えてるんですねー。

納得できれば「義務」も能動的に行えます。
「犠牲」は存在価値そのものだとわかります。

皆さんもきっと納得されると思います。ぜひご一読下さい。


そういえば・・・、以前から感じていたことなのですが、家族に食事を作って出すとか動物にエサをやるという行為そのものに、不思議な悦びがあるな、と感じていました。料理好きな人なら勿論わかるのですが、特に料理好きでもなんでもない私が感じるのです。お腹を空かせた生き物が、こちらが出した喜んで食べている姿を見ると、なんともいえずいとおしく満たされた気持ちになります。
「食べ物を与える」という行為自体が、生き物の存続に結びついていて、そこに自分が貢献していると如実に感じられる行為だからかな・・・と思っていましたが、これをヴェイユ風に解明してみれば「永遠の義務を果たしているから」なのかもしれません。

 Mさん、素敵な記事とメールをありがとうございます。
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