お米粒と電気 - ジンジャーの薫り・・・仏田舎手帖

お米粒と電気

  • 2011.04.03
ご飯粒は残さずに食べるように躾けられてきました。
一粒、一粒を作る農家の方の苦労に感謝をして、残さず食べるのが人としての礼儀であり、食べ物を粗末にしてはいけないから。
お茶碗にくっついてしまってお箸で取れないご飯粒は、お湯をかけてやわらかくして取って食べている父がいました。
それで私も、ご飯はもちろん、他のおかずでも無意味に残すような食べ方には抵抗を覚えてしまいます。
お箸が日本人ほどうまく使えない夫は、お茶碗やお皿にご飯粒が点々としているのにごちそうさまをしてしまうので、普段は口うるさくない私ですが、これは思わず最後の一粒まで食べるように度々注意をしてきました。
一粒でも残っていると、お皿を下げません。子供たちにも同じです。
ありがとう、という気持ちを込めて。。。


と、お米にはうるさい私ですが、電気に関しては立場が逆転です。
こちらに来たばかりの頃、トイレに立つだけでも、他の部屋へ物を取りににほんの1分部屋を空けるだけでも、その場所を出る時にはただちに電気を消さないと、畳み掛けるように夫の消防隊が「消せ消せ」とサイレンを鳴らして出動してくるのに、かなり閉口しました。
とにかく、電気には異様に反応するセンサーがついているようで、なぜか、「誰もいないのにつけっぱなしが2秒」以上続くと、そこに現れるという人です。
「今戻ろうと思ってたとこ」とか、「たった今部屋を出たばかり」などという言い訳は通用しません。
日本人の友人が泊まりに来た時は、戻ったときに部屋が明るいようにと友人はランプをつけて部屋を出たはずなのに、なぜか戻ると消えている・・・という謎の現象が度々起きたりしました。(誰が消したの・・・)
家中の電球はすべてエコタイプのもので、スイッチを押してもすぐには明るくならなくて、暗がりのなかでじわじわと明るくなるのを待たなければならなかったり、
夫の実家では夜中にトイレに起きるときには、廊下の電気をつけないように懐中電灯を手渡されたり、
親戚の家もそうですが、我が家もいつのまにかサロンや廊下の電球が2個に1個はつかない。切れたのかと思うとそうではなく、ネジがゆるまっている・・・わざとゆるくして、スイッチを押しても点かないようになっていたりするのです。
夫の帰宅を迎えるために、少し前から玄関を明るくしておく、なんて心遣いはもっての他。電気代のかからない真っ暗な玄関に入るほうが彼は嬉しいのでした。

そんな生活は、光まばゆい東京暮らしに慣れていた私には数年経っても慣れるはずもなく、息が詰まりそうな気持ちになることも多々ありました。
電気代を多少多めに払っても、つけっぱなしにしておく快感と便利さを取りたいと、心の底では思っていたのです。

でもそれは恥ずかしい考えで、夫の言うことは正しかったと、今になってようやっとわかりました。
今回の大事故で、今までなんとなく怖いかもしれないけど良く知らない、遠目に見ていただけの原発について、初めて考えることになりました。
今後、続けていくべきなのか、なくしていくべきなのか、という問題はこれだけ多くの被害者を生み出した現在でも、そう簡単に論じられるものではないと思います。

でもただ一つ、今現在間違いなく言えるのは、電気は多くの方の自己犠牲的な仕事と、莫大な費用によって成り立っている、ということ。
その電気を使うときには、お米粒をいただくときと同じような謙虚な気持ちで使わなければならないのだな。。。ということを初めて実感しました。
「ある」ことが当たり前なのではなく、水や食料と同じように、限りのあるものをいただいている。
そして関わっている多くの人命があるということ・・・。
その方々のおかげで電気が使えるのだから、電気を無駄にしてはいけないのですね。


いつか、蓄電できるようなシステムが発明されて、地球の電気のあり方が大きく変わることを願いつつ。




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