日本に住む大学生の方から質問をいただきました。
日本の喫茶文化の研究をなさっていて、カフェという空間の持つ社会的意味について考察していらっしゃるそうです。元来日本のカフェは欧米から来たもの。そこで、パリのカフェについても調べているうちに疑問が湧いてきたとのことです。
「パリのカフェの形成にはオーヴェルニュ地方から出稼ぎに来ていた人々との関わりが深く、そのオーヴェルニュのライフスタイルがオープンテラスという開放的なカフェの形態に深く結びついていると言うことを知りました。
しかし、日本にある文献で見当たるのはそこまでで、オーヴェルニュの人々のどのようなライフスタイルが、パリのカフェを開放感あるものに導いたのかという点が理解できませんでした。
クレランさんは、オーヴェルニュで暮らされていて、その地域の方々の暮らしのどのような点が、カフェの開放性に繋がっていると思われますか?
オーベルニュでは昔から屋外で何かを行うことが多かったのでしょうか?
オーヴェルニュは山間地帯という情報から、冷え込むのになぜオープンテラスと深い関係を持つ生活を営んでいたのかますます疑問です。
」なるほどなるほど、こちらにいらしたわけでもないのに、なかなか鋭いところを突いていますね!冷え込むし、閉鎖的な気風ですよ、オーヴェルニュは。
みなさん、
パリのカフェの約80パーセントが、実は
オーヴェルニュ出身者によるもの、ということをご存知でしたか?身のこなしも垢抜けたギャルソンがオーヴェルニュ人だなんて、びっくり ?ガッカリ?!
「
パリのカフェをつくった人々」(玉村豊男著)の中で詳しく書かれていますので、興味のある方はぜひ読んでみて下さい。
この本の中に答えが書いてあるかな?と思ったのですが、只今整理整頓中で込み入ってまして・・・というのは整理ベタの言い訳で、もうおわかりですね、本棚を探したのですが本が見つかりませんでした(笑)。
でも、2つ思いついた点があります。
その前に、ざっとパリのカフェの生い立ちに関わるオーヴェルニュ人についてお話しましょうね。
17世紀末からすでに、貧しい「中央山塊」地帯から華の都パリへの出稼ぎが始まりました。フランスの「
中央にある山塊地帯」がすなわち、「
オーヴェルニュ」と呼ばれているところです。
日本の「3K」ではありませんが、パリジャンがしたがらない苛酷な労働を地方からの出稼ぎ者が引き受けたのです。頑強で働き者のオーヴェルニュ人もそうでした。当時まだ水道の施設がなかったのですが、水は生活に必要不可欠なものです。そこでオーヴェルニュ人は都の
水運び屋となりました。
水運び屋には2種類ありました。800から1200リットルもの水を馬車に引かせて運ぶもの・・・これは給水所の自由利用権を買えるごく一部の者だけができたこと。ほとんどの運び屋は、公共の水汲み場に列をなし順番を待って、十数リットルの水を2つの桶に入れて
両肩にかけた天秤棒で担いで運ぶというものでした。それをアパルトマンの上階まで運んだのです。
「水や〜!み〜ず、みず〜」(A l'eau ! ou ai !, ou Oai !)と売り声をかけながら。(aiというのは「水」という言葉の方言を短縮して言ったものではないか、という義家族の推測です。)一回の手間賃は3スー(15サンチームくらい)、クリスマスにははずんだボーナスをくれる客もいました。
けれども19世紀半ばオスマン男爵がパリ大改造を始めたため、水道施設が各家に行き渡るようになります。
あわや失業か・・・しかしここでくじけるオーヴェルニュ人ではありません。
より裕福な客層のために、入浴のためのお湯を運ぶことにするのです!
バスタブと
お湯を載せた荷台を客の家の前に止めると、まずバスタブを運び、続いて素早くお湯を運び、今度は中庭の水道の蛇口まで水を探しに行きます。そして、客人(特に女性が多かった)が体を洗っている間はアパルトマンへの入室は禁じられていましたので、暗い(かどうかは想像ですが)階段の踊り場で終わるのを待っていたのです。体を洗い終わった後のバスタブの中の水は中庭に捨て、バスタブをまた荷台に積み戻すまで、一滴の水も床に落としてはなりませんでした。
この水運び屋も、冬は需要が少なくなります。そこで取って代わってきたのは冬に需要の多い
炭売りでした。 これがオーヴェルニュ人が
ブニャ≪bougnats≫と呼ばれるようになる始まりです。「シャルボニエ(石炭商、炭屋)」と言うのを、パリジャンがオーヴェルニュ風の訛りをまねて「シャルブニャ」と言い、それが縮まって「ブニャ」になったというわけです。
炭を売るには炭を確保する小さな店舗が必要となります。これは商売としてのリスクでもあり、同時にチャンスでもありました。
水運びの男達は、 妻帯者のほとんどは妻子を故郷に置いてやって来ているわけでしたが、宿の狭い一部屋に3,4台のベッドを入れて一人月約6フランの家賃でむさくるしい合宿暮らしをしていました。そこに女たちが掃除、洗濯、料理のために故郷からやって来ると、男達に負けず劣らず働き者のオーヴェルニュ女、水運びも手伝い、また炭の店番もする様になりました。男達が配達に出かけている間、店ではついでに野菜や果物も売っていたようです。
配達は50kgもの炭を水と同じように階上まで運ぶのでしたが、雨の日には濡れた袋の重みはさらに増しました。
当時彼らは他にも、街灯の火を灯す仕事をして稼いでいました。1日1時間位と決まっていましたから、少なくても定額の収入になったのです。
こういった小さな稼ぎをコツコツ貯めながら、彼らが楽しみに日に足げに通ったのは酒屋でした。
ここで一杯ひっかけて燃料補給。オーヴェルニュ人は実はすごい酒飲みなのです。(確かアルコール中毒が最も多い地方・・・じゃなかったかな?(;-_-)
そのせいでしょうか、炭のほかに自分達でワインを売るようになったのです。質素で厳格な気風を持つ彼らは教会からのお墨付きを得て炭兼
酒屋になりました。
これが、ブラッスリー、そしてパリのカフェの始まりでした。
ふぅ〜〜タイムマシンの駆け足でした〜。
* 参考サイト:以上は
Histoire-Généalogie と
Métiers de nos ancêtresと
Les aveyronnais de Paris を元に書いています。
あら?でもまだ、質問にお答えしていませんでした?(∩_∩;)
ここでようやっと質問に戻ります。(^-^)
(探してみた仏語のサイトでも答えは見つかりませんでしたので、私の体験からの感想を書きますね。)